静岡
静岡県(しずおかけん)は、中部地方の県の一つ。 首都圏と中京圏の間に位置する。県庁所在地は、静岡市。 旧遠江、駿河、伊豆の三国にあたる。
旧駿河、伊豆は場合によっては関東圏に含める場合がある。
県名は明治2年に駿河藩が現在の静岡市内にある賤機山に由来して静岡に改名したことに始まる。
気候は典型的な太平洋気候で温暖。平野部では降雪も稀である。
キャッチコピーは「ふじのくに 静岡県」、スローガンは「富国有徳 創知協働」である。
ヤマトタケル伝説
蝦夷征伐に赴いた時、駿河国でだまし討ちに合う。そのとき草薙剣で草をなぎ払って難を逃れたと言う伝承がある。その地を草薙(静岡市清水区草薙)と呼んだ。また、賊を焼き払った野原を焼津(焼津市)と呼んだという。
歴史
律令制が整うに従って静岡県内に有った国々は、遠江国、駿河国、伊豆国の3つの令制国に整備されていく。伊豆は流刑地の一つになっていた。
律令制が整うに従って静岡県内に有った国々は、遠江国、駿河国、伊豆国の3つの令制国に整備されていく。伊豆は流刑地の一つになっていた。
一方、駿河には藤原南家の末裔の多くが住み着き土着したようである。
伊豆に流された源頼朝がその地の武将北条時政と親しくなり、北条政子と結婚する。そこで、兵を挙げ鎌倉幕府を起こした。
室町時代に入ると守護大名として、今川氏が駿河に入った。14世紀後半にはいると、遠江の守護職も兼ねた。
今川氏親の代に入ると、北条早雲らの力によって、一族の抗争を終わらせ戦国大名への道を歩むことになる。また、応仁の乱の後散逸した貴族達が多く逗留した。一方北条早雲は、伊豆の堀越公方を攻め滅ぼし、それを足がかりに関東支配へ乗り出す。
駿河、遠江、三河を支配した今川義元が、桶狭間の戦いで織田信長に殺されると、今川氏は弱体化し、三河の徳川家康と甲斐の武田信玄によって領土を切り取られてしまう。家康は浜松城を建築し、そこに居住した。武田信玄が死亡し武田勝頼の代になると、一進一退の攻防が続くが、長篠の戦いで敗北を喫すると武田家は勢力を弱め、徳川家康は、三河、遠江、駿河の三国を支配する事になる。本能寺の変で、織田信長が殺されるとそれに乗じて、甲斐、信濃を攻め取り、五カ国を支配する様になる。
その後、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、家康は関東に移され、駿河、遠江には、織田家の家臣が入った。
豊臣秀吉が死に、徳川家康が幕府を開くと、すぐに秀忠に将軍職を譲り、家康は、駿河府中に駿府城を構えそこで大御所政治を行った。
江戸時代においては、伊豆・駿河・遠江は、天領と小大名・旗本の領土が複雑に入り組んでいる土地であった。
静岡独自の製茶の技術が発達したのもこの時代である。
1868年(明治元年)5月、駿河の天領・沼津藩・田中藩・小島藩・諸旗本領、遠江の相良藩、横須賀藩、浜松藩、掛川藩、諸旗本領を合併し駿府藩(70万石)を設置、徳川慶喜が入る。同年6月、伊豆国(旧韮山代官領)の地域に韮山県成立。同年9月、旧堀江陣屋(5600石、申告1万6石。今の浜松市舘山寺地区)が堀江藩に昇格。
1869年 駿河藩を静岡藩に名称変更(藩知事:徳川家達)。
1871年7月 廃藩置県で、駿河藩に静岡県成立。堀江藩に堀江県成立。同年11月、静岡県のうち、駿河国部分を静岡県に、遠江国部分を浜松県に分割。堀江県は廃止され、浜松県に編入。韮山県は荻野山中県、小田原県と合併して足柄県となる。
1876年4月 足柄県が廃止され、伊豆地区は静岡県に編入。同年8月、浜松県が廃止となり静岡県に編入。
1878年伊豆諸島が東京府(現在の東京都)に編入。
このように、遠江、駿河、伊豆の三国が廃藩置県後変遷をへて現在の静岡県となった。
2005年4月1日、静岡市が政令指定都市に指定された。
特徴
2次産業の割合が高いが、お茶やみかんに代表される農業やまぐろ・かつおなどで有名な漁業、伊豆・赤石山脈・浜名湖などの観光等のサービス業も盛んである。 |